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足利フラワーパークの睡蓮






7.関連情報・その他

足利の風景(渡良瀬川)

渡良瀬川の変遷(当時の足利地域)

 現在の足利市の領域は、平安時代末の地名では、下野国の足利郡と梁田郡となります。下野国(現栃木県)は上野国と渡良瀬川を境※1とし、また足利郡と梁田郡は現在の渡良瀬川流路付近を流れていた小河川を境※2として北を足利郡、南が梁田郡となります。
なお、足利荘の成立時、果たしてどこまでの領域を寄進したのか定かでは有りません。
※1 当時の渡良瀬川流路は現在と異なり、栃木・群馬の県堺を流れる現在の矢場川を本流としていました。
※2 現在の渡良瀬川河道に近い所を流れていた小河川は清水川という名前で古地図などで確認できますが、源流が松田川なのか、桐生川なのか定かでは有りません。

 渡良瀬川は、源氏に関わる伝承が数多く伝わる足利市八幡町の西を南に遡行していましたが、西暦1562年頃の洪水で大きく流れを変え、西暦1567年の改修工事により現在の流路が固定されたそうです。西暦1567年というと室町時代の末期、上杉謙信が背いた佐野昌綱を降伏させるために唐沢山城を攻撃していた年です。(両者は複数回鉾を交えており、この戦いは「永禄10年の戦い」) 


 上の地図は、足利氏八幡町、源氏の屋敷地と思われるあたりです。見て気付くかも知れませんが、野州山辺駅の西に、今も昔の河道の名残が小河川として存在していおりますし、古くからの道の向きなどからも昔の河道を推測できます。往古、渡良瀬川がこの方向に流れていたと考えられます。
 下では、国土地理院の地図を利用して往時の流路を推定してみました。

資料1】往時の渡良瀬川流路(推測)

拡大地図
国土地理院1/25000地図を使用


● 梁田御厨
 【資料1-A】の地域には、義家ゆかりの「八幡神社」や「大将陣」、「源氏屋敷」等の地名が残ります。ここでは、この地域に義家の荘園(私領)が存在したと仮定しています。後年、安楽寿院に寄進し足利荘として成立させた領域は定かでは有りませんが、この地域である可能性は高いと考えられます。
 また、【資料1-B】の地域は「梁田御厨」と呼ばれる地域です。この地域は足利荘成立後、籐姓足利氏との間で知行権をめぐり紛争の火種となった地域です。元々この地は、伊勢神宮が所有する「梁田御厨」荘園として成立しており、その過程に源氏は介在していません。しかし、足利荘の成立過程で「足利」の寄進を受けた源氏の主張は、梁田御厨も源氏への寄進地に含まれるという事でした。源氏の屋敷地と思われる地域が梁田郡西部にあり、多くの源氏勢力の田堵などが既に梁田御厨地域に土着していた事は想像に難く有りません。源氏の主張は、そうした現状の追認を求めた点も有るかも知れません。


● 餘部
 本編には直接関係の無い話ですが、今回資料にさせていただいた三重小百十周年記念刊行の「郷土三重見聞録」に意外な記述が有りましたのでご紹介します。
 それによれば、往古、五十部及び今福地域は葦の繁る沼沢が広がる氾濫原だったそうです。そして広がる沼沢の間のいくつかの高台に数える程の家しか無く、餘部(あまるべ=余部(よべ)=余りの集落)と呼ばれていたそうです。これが現在の五十部(よべ)の名の由来だそうです。
 現在ではなかなか信じがたい事ですが、確かに今でも、船頭山、舟面、蔦ヶ入り、西舟などの地名が残っています。
【資料2】郷土三重見聞録より「往古の国道や渡良瀬川を中心とした地図」
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