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足利氏にゆかりの寺院 (養源寺)

 

石垣と養源寺本堂を望む

臨済宗妙心寺派 白華山 養源寺

 養源寺は、源義国を開基とし泰亀円了和尚(〜没年:西暦1152年)を迎えて 開創されたと伝わります。
 場所は足利市板倉町にあり、他の「足利氏ゆかりの寺院」が鑁阿寺近辺および北部から北東部にあるのに比べると些か特異な場所に位置しています。
 そこで下のGoogleMapで各施設の位置関係を確認してみます。

 面白い事に、鑁阿寺と養源寺を繋ぐ線上に足利氏に関連の深い史跡が並ぶ事が確認できます。
 @ 県立足利清風高校北・平石八幡宮(智光寺跡)
 A 板倉雷電神社(板倉城跡)
 この二つの史跡は、足利義兼の曾孫・泰氏と関係が有ります。智光寺は、泰氏が建立し隠居所としたと伝わり、板倉城は泰氏の子・義顕(兼氏)が築いたとされます。

※ その義顕は渋川氏の祖となり、渋川氏は南北朝時代に活躍します。また、その連枝に板倉氏が有り、江戸時代の初期に家康の元で京都所司代を務めた板倉勝重がその子孫と言われています。
※ 下は板倉城跡となる山

 足利泰氏は、足利に居住した最後の足利氏当主であり、また歴代と異なり足利西部に居所を構えました。養源寺の立地から、源義国開基の寺院に泰氏が何らかの関わりを持ったのかも知れません。

 ところで養源寺開基・源義国に関しては、その多くが定かでは有りません。例えば義国には「寳幢寺殿泰山觀東義大居士」と「青蓮寺殿覚阿宗岳梅翁」いうふたつの戒名が付けられています。後者の青蓮寺は、群馬県太田市岩松に現存し、近くに義国神社や義国の墓と言われる石碑も有り、義国の居住事実は孫の義清が納経した大般若経の奥書の記述からも知る事が出来ます。
 一方の寳幢寺は、その立地場所が確定されていません。僅かに古地図で「寳幢寺」と記された二か所を確認でき、そのひとつ(足利市緑町の八雲神社の場所)に建っていたと言われます。

◎ 寛文四年九月の足利町之図(国立国会図書館蔵書)※P58参照

※ 足利市緑町にある八雲神社の位置と言われています。尚、現在の場所に八雲神社が移転されたのは明治になってからです。それまでは現在よりも低い場所に建てられて居ました。

◎ 明治三十年九月 足利町全域(国立国会図書館蔵書)※P56参照


※ 足利市柳原町に残されている字です。いずれにしても現在、寳幢寺の痕跡は確認できません。

 因みに、足利氏初代・義康の戒名「鑁歳寺殿義山道達大居士」に有る、鑁歳寺の所在も未確定です。仮に養源寺が寳幢寺の跡であるならば、逆位置に有る光得寺も鑁歳寺の跡に義氏が再建したのかも知れません。いずれにしても自由な推測でしか有りません。

● 養源寺の庚申塔は、非常に有名です。

 

  ● 非常に印象的な石垣。まるで城跡のようです。

   

 養源寺が建てられて居る板倉は、先にも書いた通り江戸幕府の重臣・板倉家の本貫地でもあります。江戸時代の足利は、幕府領、旗本領、足利藩領、河内丹南藩領などが入り混じって居ました。板倉を領有していたのは河内丹南藩であり、板倉には代官が派遣されていたそうです。

 

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