足利氏にゆかりの神社 (下野國一社八幡宮)
八幡宮本殿
下野國一社八幡宮
西暦1056年に源頼義・義家父子が男山八幡宮を勧請して創建されました。
下野國一社八幡宮とは、下野国(現.栃木県)第一の八幡宮という意味であり、一國一社八幡宮とも称されてきたそうです。
足利における源氏の第一歩として記された下野國一社八幡宮は、足利が”源氏累代の所領”である傍証となる事もあります。現在もその事を示すように、八幡宮の鳥居の傍に”源姓足利氏発祥之地”なる碑文が飾られています。
足利が源姓足利氏発祥の地となるのは、源頼義の孫(義家の四男)義国が足利を伝領した事に始まります。(「平安末期・足利氏の始まり」)そして義国が足利の他に受け継いだ上野国八幡荘にも「上野國一社八幡宮」と呼ばれる社が有ります。こちらの創建はさらに古く西暦957年に源頼信(頼義の父、義家の祖父)の勧請によります。
ところで、前述した「一國一社八幡宮」という呼称ですが、この呼び名は律令制における国衙の鎮守として国府の近くに創建された社に対する呼び方だそうです。
もしも足利の八幡宮が「一國一社八幡宮」で有ったならば、創建当時足利は事実上の国府であった事になります。言うまでも無く国府は国司が赴任する場所でもあり、後に源義家が下野守として在地していたならば、この地に拠点を構えていたかも知れません。
そうなると、藤姓足利氏と源氏との初期の良好な関係も頷けそうです。
※一般的に律令制の時代の下野国府は現在の栃木市西部にありました。
八幡宮の創建当時、源頼義は源氏の棟梁であり陸奥守と鎮守府将軍を兼任し奥州に赴任(西暦1051年〜西暦1062年)していました。その間に奥州で勃発した蝦夷の反乱が「前九年の役」です。
八幡宮創建の西暦1056年は、小康状態に在った奥州において阿久利川事件が発生し、安倍氏と朝廷(頼義)との間で本格的な戦いが始まった年です。(阿久利川事件は陸奥守の任期が終わる源頼義が手柄を求めて引き起こした謀略という説が有力です。)
八幡宮の創建(勧請)と同じ年に勃発した阿久利川事件との前後関係は定かでは有りませんが、足利の八幡宮は頼義の奥州平定、安倍氏打倒を祈願して創建されたと伝わります。
その後、頼義は苦しみながらも安倍氏討伐に成功し栄達を遂げました。これもひとえに足利の八幡宮のお蔭と考えたか、下野國一社八幡宮はこの後も源氏の一族から崇められ保護されてゆきました。