足利氏にゆかりの神社 (法界寺跡・樺崎八幡宮 )
樺崎八幡宮
法界寺跡・樺崎八幡宮
●樺崎八幡宮
西暦1189年、足利義兼によって創建され、足利義兼の廟所であったと言われています。
一説によれば義兼が当地に下御堂(法界寺)を創建し、源頼朝の逝去の年、西暦1199年にこの地に於いて生入定したと言われています。後に息子、義氏の手により法界寺の諸堂宇は整備され、八幡神を勧請したとの事です。
※ 生入定
足利ではなぜか法界寺・樺崎八幡宮を樺崎寺と呼称しています。(説明版では法界寺です。)
国立国会図書館所のデジタル化資料として登録されている鑁阿寺小史には樺崎寺という呼称は登場せず、p33において僅かに「鑁公當寺を以て檀上となし、樺崎を以て奥ノ院となし、兩寺通路の間三十七本の卒塔婆を起て、金剛界果地の三味耶を表す」と地名として樺崎が登場します。逆にp21、p35では「法界寺」の名称は明確に記載され、特にp35では先のp33の地に関して、文治5年の泰衡追討に際しての祈祷の時に寄進した地で、法界寺と言い、後に下御堂と云うと書かれています。
作者はお名前から察するに鑁阿寺の方なので、「法界寺」という名前が正しと思うのですが不思議です。このまま樺崎寺という名前が定着するのは文化遺産として問題が有りそうです。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819734
(国立国会図書館所蔵 山越忍空 著 「鑁阿寺小史」)
復元予定図のようです。
※2013年11月現在、この復元案のデジタルデータがインターネットに公開されていないようです。
著作権や意匠権が有るのかも知れませんが、市民としてはこの想像図の詳細を知りたいと思います。
(今は南北朝時代では無いので、常識的に復元の3DのCGくらい作っている筈)
下のような汚れた看板に供養塔覆屋跡と書かれていました。
義氏の供養等が置かれていたと伝わるそうです。
足利氏歴代の供養塔が並べられていたそうです。
現在、供養塔は近くにある義氏公開基の寺である光得寺に移され、近く公開予定だそうです。
比較的最近修復されたようですが、傷みが出てきています。なるべく大切に維持して欲しいですね。