5.室町時代・関東の戦乱(衰退する足利氏)
足利市・勧農城跡の遠景
● 長尾景春 の乱
西暦1473年、五十子陣で陣没した長尾景信は山内上杉氏の家宰の地位にありました。
この「山内上杉氏の家宰」の職は代々、長尾氏の諸家の持ち回りという取り決めで受け継がれてきたと言われています。その順番に従えば長尾景信亡き後「山内上杉氏の家宰」の職に就くべき人物は長尾景人でした。
しかし長尾景人は先の戦いで既に落命しています。そこで上杉顕定は、「家宰の職」に長尾景信の弟、長尾忠景を指名しましたが、この人事に長尾景信の子・景春が不満を抱きました。
その結果引き起こされた乱が「長尾景春の乱」と呼ばれるものです。
※ この反乱について扇ヶ谷上杉氏の家宰・太田道灌は、事前に景春から反乱への合力を求められました。道灌は上杉顕定に「景春に家宰職を与え無いのであれば、必ず謀反に及ぶので討伐するべき」だと伝えたそうです。しかし景春およびその与党の実力を軽視した顕定は太田道灌の言葉を入れず、結果的に長尾景春に虚を衝かれて惨敗する事となります。
因みに、足利長尾家はこの時、長尾景春に与力しています。
西暦1477年正月、五十子陣は長尾景春に急襲され陥落し、上杉勢は潰走させられます。
長尾景春は相模・南武蔵の諸勢力を糾合し侮りがたい勢力となります。
● 「梟雄」長尾景春と「軍神」太田道灌の戦い
この長尾景春の反乱に対し、扇ヶ谷上杉氏の家宰職にあった太田道灌がいち早く反撃の狼煙を上げ、早くも3月には相模の敵対勢力の諸城(溝呂木城と小磯城)を次々に落とし、4月に江古田・沼袋原の戦いにおいて敵方の豊島氏を撃破します。
そして5月には上杉勢と合流し、五十子を奪還し、用土原の戦いで景春を撃破しています。
太田道灌のこの素早い動きに最も動揺したのは古河公方でした。景春の反乱により戦局の好転を目論んでいた古河公方の失望は大きく、西暦1478年に上杉側に和議の申し入れをする事になりました。
道灌は、和議の話し合いの中も景春に味方する反抗勢力を駆逐してゆきます。
西暦1478年3月から相模国・小沢城を攻め、、4月に小机城を攻略し、7月には上野国の鉢形城を攻略し、12月には和議に反対する成氏の有力武将千葉孝胤を境根原合戦に打ち破ります。
更に西暦1479年千葉孝胤の籠る臼井城(千葉県佐倉市)を攻略し房総半島から反対勢力を一掃すると、西暦1480年に長尾景春最後の拠点北武蔵の日野城(埼玉県秩父市)を攻略し関東を平定します。
1476年 | 長尾景春の乱 | 景春 五十子陣急襲し取り囲む |
1477年 | 五十子の戦い 江古田・沼袋原の戦い 用土原の戦い |
五十子陣陥落 太田道灌により景春陣営の豊島氏が敗亡 景春敗退するも道灌攻めきれず |
1478年 | 平塚城 陥落 小沢城 陥落 小机城 陥落 鉢形城 陥落 境根原合戦(下総・千葉氏) |
太田道灌の活躍により相模の反抗勢力が駆逐され、武蔵国鉢形城も陥落し、上杉顕定の居城となる |
1479年 | 臼井城 陥落 | 太田道灌、房総半島を平定 成氏が幕府に和睦の申入れ |
1480年 | 日野城 陥落 | 太田道灌、武蔵国を平定 |
1483年 | 都鄙合体 | 幕府と成氏との和睦が成立 享徳の乱終結 |
※ 太田道灌はその才幹により、三十年にも及ぶ期間、勝敗が決することのなかった関東の戦乱「享徳の乱」に終止符を打ちました。しかし、道灌個人に依存した平和は長くは続きませんでした。
弱体化する中世的権威「上杉氏対立と崩壊」 北条早雲
● 太田道灌の暗殺と長享の乱「上杉氏の内紛」
先の享徳の乱において比肩する者の無い活躍をした太田道灌は、主君である扇ヶ谷・上杉定正の企てにより西暦1487年に暗殺されてしまいます。
暗殺の理由には「扇ヶ谷・上杉定正陰謀説」、「扇ヶ谷上杉家臣陰謀説」、「山内・上杉顕定の陰謀説」など様々です。しかし、仮に太田道灌が存命であり、扇ヶ谷上杉の家宰であり続けたならば、後に勃発する扇ヶ谷上杉と山内上杉の両氏の争い「長享の乱」が起きる事は無かったでしょう。それは太田道灌個人の圧倒的な戦術能力と諸侯からの絶大な信頼の前に山内上杉氏が敵対することは不可能だったからです。
この暗殺事件を契機として再び戦乱となります。これを長享の乱と呼びます。
長享の乱は、西暦1487年に山内上杉勢が足利の勧農城を攻め取った事に始まります。勧農城城主・長尾房清は初代・長尾景人の弟です。長尾氏は山内上杉の家宰を務める家柄ですが、房清が扇ヶ谷上杉氏に通じたため攻撃されたとされます。
翌、西暦1488年に古河公方・足利政氏の軍勢を率いる長尾景春が扇ヶ谷上杉氏に味方し、実蒔原の戦い、須賀谷原の戦い、高見原の戦いという3つの戦い(長享三戦)の何れにおいても扇ヶ谷上杉氏が勝利を収めましたが、太田道灌暗殺は、関東における扇ヶ谷上杉氏の信頼を失墜させ、軍民の離反が続きました。
1487年 | 長享の乱 勧農城の戦い |
足利市岩井町 |
1488年 | 実蒔原の戦い 須賀谷原の戦い 高見原の戦い |
長享三戦 いずれも扇谷上杉陣営勝利 |
● 北条早雲の伊豆侵攻
享徳の乱において扇ヶ谷上杉氏家宰・太田道灌に滅亡寸前に追い詰められた長尾景春が、その扇ヶ谷上杉氏と連合するという驚天動地の混沌の中、西暦1493年、伊豆国に在った堀越公方で内紛が生じ、その隙をついた北条早雲(当時は伊勢宗瑞と名乗っていた)が堀越公方を駆逐し、治めていた伊豆国を占領します。
※ 北条早雲による伊豆侵攻は、扇ヶ谷上杉氏・上杉定正の策謀によるという説があります。
この後、北条早雲は上杉定正・長尾景春・古河公方側の連合勢力側となります。
しかし、翌年、西暦1494年、上杉定正が落馬事故で急逝してしまうと事態が急展開します。
扇ヶ谷上杉氏・上杉定正の急死(上杉朝良が相続する)により、古河公方・足利成氏は山内上杉・顕定側に支持を変えます。
※ 「享徳の乱」のはじめ、扇ヶ谷上杉氏に長尾景虎が味方した際は、古河公方・足利政氏の軍を率いていました。古河公方が山内上杉氏に支援を変えたという事は、古河公方内においても分裂が生じた事になります。
その後、西暦1496年に山内上杉・顕定は足利政氏と連合して相模に侵攻しますが、扇谷上杉側の長尾景春・大森藤頼そして北条早雲の援軍と戦い撤退しています。
※ 北条早雲は、この後、西暦1501年までに扇ヶ谷上杉氏・上杉定正の了承のもと、小田原城(大森氏の居城)を奪い、そこを本拠地としています。
西暦1504年、山内上杉・顕定と古河公方連合軍が、扇ヶ谷上杉・朝良の居城、武蔵国の河越城を攻撃しますが、救援に駆けつけた北条早雲と今川氏親の軍と立河原(立河原の戦い)で激突し、山内上杉・古河公方連合軍が撃退されます。
しかしその敗報に接した山内・上杉顕定の弟である越後守護・上杉房能が、長尾能景に指揮を委ねて兵を河越に向かわせ、北条・今川の連合軍が引き上げた後の河越城を包囲し、扇ヶ谷上杉・朝良を降伏させました。
1493年 | 北条早雲 伊豆討ち入り | |
1494年 | 扇谷上杉氏・上杉定正死去 | |
1504年 | 立河原の戦い | (山内)上杉顕定敗北 |
1505年 | 越後上杉氏・河越城を包囲 両上杉氏の和解 |
上杉朝良降伏 |
● 越後国の内乱と長尾氏による下克上
こうして越後国守・上杉房能の派遣した長尾能景により上杉朝良が降伏し、長享の乱は終息する事となりましたが、直後の西暦1506年に越中国の一向一揆との戦いに出征した長尾能景はそこで命を落とします。
その後、越後長尾家の家督を継承した長尾為景は、越後国守・上杉房能に反旗を翻し房能を自刃に追い込んでしまいました。
弟である房能を弑逆された関東管領・山内上杉氏・上杉顕定は越後国に出陣しますが、長森原の戦いで長尾為景に敗れて敗死してしまいます。
※ 長尾為景こそ、後に上杉謙信として関東管領上杉家の名跡を継承する景虎の父です。
1506年 | 永正の乱(越後の内乱) | |
1510年 | 長森原の戦い | 上杉顕定戦死 |
1515年 | 山内上杉家の内紛(1512年〜) | 上杉顕実病死 |
西暦1415年の上杉禅秀の乱に始まった政権内部の争いは、関東管領・上杉顕定の戦死を以って足利氏・上杉氏の没落を決定付け、両者は歴史の舞台から退場してゆくこととなります。
■ 鎌倉公方 → 古河公方 → 弱体化・権威喪失
■ 山内上杉氏 → 越後国を下克上で喪失、後に関東管領の職を長尾景虎(上杉謙信)に譲る。
■ 扇ヶ谷上杉氏 → 相模国北条に攻め滅ぼされる。
関東において百年間繰り広げられた戦いにより、「中世的権威により兵を集めて行う戦い」は終焉を告げ、北条早雲、上杉謙信、武田信玄に見られるような「強烈なカリスマにより兵を集めて戦う」時代に突入します。
もし仮に太田道灌が、享徳の乱の終盤において、中世的権威と決別する事が出来ていたならば、関東に強大な分国を築き上げ秩序を取り戻せたかも知れません。またさらに遡れば、上杉憲実が鎌倉府滅亡の時、隠遁せずに上杉氏の集権化に努めていたならば、小国乱立・戦乱の関東とはならなかったかも知れません。しかし、それらは全て歴史の上での可能性でしか有りません。
これ以後、自立していく戦国諸侯は「圧倒的な戦力差こそ最大の武器である」事を見出し、国力増大・戦力増強にしのぎを削るようになり、戦いは益々凄惨を極めた物となってゆきます。関東に平和が訪れるには、この後更に百年の時間と多くの尊い犠牲を必要とする事になります。