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尊氏像

4.南北朝時代・足利氏の活躍(人物)

足利尊氏公

室町幕府 征夷大将軍 足利尊氏

 足利尊氏は義国から数えて八代目の子孫。征夷大将軍として室町幕府を開いた人物です。
 様々な小説の中では人間的魅力に溢れる反面、優柔不断、一貫性の無い矛盾の人として描かれています。政治力や軍略(戦略)においても見る所が有りませんが、一方、陣頭に立った多くの戦に勝利しています。武将としての戦術的な才能に恵まれていたようです。
 徳川政権以降(特に徳川光圀が大日本史を編纂して以降)、第二次世界大戦集結までは逆賊としてその名は泥塗れにされますが、戦後は正当に評価される事になります。
 尊氏の優柔不断な性格が災いし、後醍醐帝の扱いを間違えた事から南北朝の内乱が拡大した事は事実ですが、一方、平氏政権や鎌倉幕府における北条政権の様に皇室に対して不遜にして苛烈な対応を実行せず、始終尊敬の念を失わなかった尊氏は、当時、最大の天皇家護持者であり忠臣でした。

 ■ 足利尊氏に関する情報
 生没年 : 西暦1305年〜1358年
 別名  : 足利又太郎
 墓所  : 京都府京都市北区萬年山等持院
       神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺
 官位  : 従五位上、鎮守府将軍、従四位下、左兵衛督、従三位、武蔵守、正三位、参議、
       征東将軍、従二位、権大納言、征夷大将軍、正二位、贈従一位、贈左大臣、
       贈従一位太政大臣
 父   : 足利貞氏
 母   : 上杉清子
 妻   : 正室:赤橋登子、 側室:加古基氏の娘、越前局、ほか
 子   : 竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王、他
 法名  : 等持院殿仁山妙義大居士
 年表  : 尊氏は、元弘の変以降、幾多の戦いに於いて、友人、兄弟、息子と戦います。
       私本太平記などでは、武勇に秀でながらも心優しく、時に行動に矛盾も生じる人間
       臭い人物として描かれます。仏門に深く帰依し多くの寺社を保護・建立しています。
       足利市の足利学校前にある善徳寺もその一つと言われています。



●足利直義

 生没年 : 西暦1306年〜1352年
 足利尊氏の同母弟。鎌倉幕府の打倒から足利氏の政権奪取に至るまで、直義は高師直と共に尊氏を支えて活躍してゆきます。幕府の成立後は世間から副将軍とも呼ばれます。 
 冷静沈着で、政治力、実務能力に優れており、北条政権を範とした武家政権の樹立に努力します。直義あればこそ、尊氏の天下取りは成就したと言われます。
 幕府成立後、軍事面を統率する高師直との間に軋轢が生じ、政権内部で派閥争いがはじまります。
 高師直は「皇室権威否定派」であり、直義は「権威肯定派」でした。高師直にすれば、天下騒乱の元凶は、皇室権威を振りかざす南朝の存在に有ると考えていました。一方、直義は、皇室の権威あってこその征夷大将軍であり、天下静謐の為には皇室の権威回復が重要だと考えていました。
 両者はやがて衝突し、観応の擾乱を引き起こします。先に手を出したのは武闘派の高師直の一族であり、後には直義側の反抗により高一族は滅ぼされます。
 しかし、最終的にはその直義も尊氏に敗北し、鎌倉に幽閉されたのちに命を落とします。

✔近年、足利直義肖像とされた絵
※ 足利直義と高師直の対立の背景には、両者をそれぞれ支持する勢力同士の反発もあります。政に厳正厳格な足利直義派(文治派)に対する情義に厚く現実主義的な高師直派(武闘派)との争いは、何れの時代にも見られる対立です。

 尚、直義の死に関して、太平記では尊氏による謀殺と記されていますが、尊氏の優柔不断な人となりがその考え方を否定しています。


●足利義詮

 生没年 : 西暦1330年〜1367年
 足利尊氏の嫡子。幼名を千寿王と称する。第二代室町幕府将軍。
 西暦1333年に足利尊氏が鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、千寿王(義詮)は密かに鎌倉を脱出し、途中で新田義貞の軍勢と合流します。足利氏の嫡男が新田軍に合流した事により多くの坂東武者が新田軍に合流しました。
 鎌倉幕府が倒れた後、義詮は鎌倉を拠点に坂東の統治に努めますが、観応の擾乱により直義が失脚すると、義詮は京都に呼び寄せられ政務を担当する事になります。
 観応の擾乱は西暦1352年に直義の死により収束しますが、その後も大小の騒乱が続き、義詮も尊氏と共に兵を率いて転戦します。
 西暦1358年に尊氏が没し、義詮は征夷大将軍に任命されますが、その後も南朝の存在を原因とした有力諸侯による騒乱が相次ぎます。
 「太平記」では義詮は愚鈍な人と酷評されます。しかし、北条政権が「承久の乱」により朝廷を無力化し社会を安定に導いた事に比べ、優柔不断な足利尊氏は南朝の命脈を絶つ事が出来ず、不良債権として義詮に残してしまいました。義詮は生涯、南朝と云う不良債権に悩まされますが、着実に幕府を運営していった名宰相です。


●足利基氏

 生没年 : 西暦1340年〜1367年
 足利尊氏の子。第二代室町幕府将軍義詮の同母弟。初代鎌倉公方
 観応の擾乱の勃発により、京都に赴いた義詮に代わり基氏は鎌倉公方として下向します。
 基氏を補佐する者の中に上杉憲顕(足利学校の中興を果たす上杉憲実の祖)の名も見られます。基氏の上杉憲顕への信任は厚く西暦1363年管領に取り立てます。

 足利基氏は、敵対勢力は躊躇なく征伐する武勇の人と伝わり、鎌倉を拠点に坂東の騒乱鎮定に尽力します。
 武蔵合戦では尊氏と共に戦い新田一族を滅ぼし、坂東の平定を実現しています。
 残念ながら西暦1367年、齢28にて早逝しています。


●新田義貞

 生没年 : 西暦1301年〜1338年
 源義国の子、義重の末孫。鎌倉幕府打倒の立役者。
 ※ 一説には里見氏からの養子とも言われるが、里見氏も義重の子孫。
 今も残る群馬県の生品神社で旗揚げし、小手指原の戦い分倍河原の戦い関戸の戦いで北条軍を次々に撃破し、ついには稲村ケ崎を突破して鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。
 新田義貞にとって不運で有ったのは、その家格の低さから、その功績に比べ信望を集める事が出来なかった点にあります。
 戦前の歪曲された歴史観の中では、楠正成と並ぶ英雄として描かれますが、実際には、家格の低さを負い目に感じ、その点を南朝方に付け込まれ、不運な生涯を送る羽目になった悲劇の武将です。
 現実問題、当時の新田陣営には義貞を始め、政権担当能力のある人物も組織も無く、新田義貞の滅亡は歴史の必然ですが、仮に南朝の走狗とならずに足利政権の樹立に協力していれば、異なる歴史を作り上げられたであろう人物です。 
 尚、新田次郎原作の「新田義貞」、吉川英治原作の「私本太平記」などには時代に翻弄された悲劇の人として描かれています。その盛衰は木曽義仲に似た印象を受けます。


●高師直

 生没年 : 不詳〜西暦1351年
 足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒の戦いに臨むが、足利直義と対立し観応の擾乱を引き起こします。高師直、師泰兄弟は共に尊氏の軍事面での支援者として戦いに参加しています。
皇室権威に対する苛烈な考え方等から、戦前の歪んだ歴史観の中では大悪人として伝わりますが、その発言(※1)は平和を希求する者として現実的な意見です。実際に鎌倉幕府は創立期に発言同様の事を実行し泰平を導いています。

(※1の発言)
「王(天皇)だの、院は必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」
 高一族の先祖は、源義国と共に足利に下向した高階惟頼(諸説あります。惟頼の父惟章とも言われています。)であり、高師直は足利尊氏と共に足利幕府創設に貢献しています。 別項での説明の通り、高階惟頼は義国と異腹の兄弟という説が有ります。伝承では有りますがその血縁と功績の大きさに基づきここに記載します。
 なお、高階氏がいつから”高”氏を名乗ったのかは手元に年代を特定する資料が有りません。詳細は足利市にある清源寺所蔵の「高階系図」に記載されているそうです。

 ✔近年、高師直像とされた絵
 高階氏の子孫、”高”氏の一族は、鎌倉時代を通じて足利一門の家宰(執事)という立場で家を取り仕切り、多くの一族を分出しています。また知行地の多くが足利近隣で有る事も特徴です。 以下に、そのいくつかを見てみます。

 ■ 惣家[”高”氏] 
  ・ 足次郷(現館林市域)
  ・ 渋垂郷(現上・下渋垂町)
  ・ 小曾祢郷(現小曾根町)
  ・ 山形郷(現佐野市域)
  ・ 岩井郷・荒萩郷(現瑞穂野町)
   ※ 屋敷が松本郷(現小俣町)にあったという
 ■ 南氏
  ・ 丸木郷(現名草下町)
   ※ 名草中町の真言宗金蔵院の寺域は南氏の屋敷址と言われる
 ■ その他の所領(所領の字を氏名としている一族)
  ・ 足次(現館林市域)
  ・ 泉(現和泉町)
  ・ 田中・窪田(現久保田町)
  ・ 恒見(現常見町)
  他に、大平氏、彦部氏などの諸族も他地域に根付いてゆきます。



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