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尊氏像

3.鎌倉時代・足利氏の胎動(源義国からの足利氏九代)

下野国一社八幡宮境内にある碑

鎌倉足利氏九代

義国から尊氏までの歴代足利当主

●源義国
 生没年 : 西暦1091年〜1155年
 別名  : 足利式部大夫、荒加賀入道
 墓所  : 鑁阿寺、菅田の稲荷山に供養碑、太田市の青蓮寺(義国神社)
 氏族  : 河内源氏、義国流源氏の祖
 官位  : 従五位下、帯刀長、式部丞、加賀介
 父   : 源義家
 母   : 藤原有綱の娘
 妻   : 藤原敦基(上野介)の娘、源有房の娘
 法名  : 寶幢寺殿泰山道觀東義大居士(青蓮寺殿覚阿宗岳梅翁)/足利義国大権現
 事績  :
 足利の地に根を下し、一門による南上野一帯に及ぶ広大な領域支配を始めた人物。


●源義康
 生没年 : 西暦1127年〜1157年
 別名  : 足利義康、足利陸奥判官、足利蔵人判官
 墓所  : 鑁阿寺、菅田の稲荷山に供養碑
 氏族  : 足利源氏の祖 (河内源氏義国流足利氏)
 官位  : 足利庄下司職、北面武士、左衛門尉、検非違使、従五位下、蔵人、陸奥守
 父   : 源義国
 母   : 源有房の娘
 妻   : 藤原敦基(上野介)の娘
 子   : 義清、義長、義房、義兼
 法名  : 鑁歳寺殿義山道達大居士
 事績  :
 一般的に足利氏の祖とされ初代として数えられるが足利における足跡よりも、保元の乱を中心とした都での足跡が多く残されています。早逝しています。
 菅田の稲荷山に遺跡が有ると、 山越忍空著作の「足利庄鑁阿寺(p13)」に記されます。


●足利義兼
 生没年 : 西暦1154年〜1199年
 別名  : 三郎(通称)、足利蔵人、足利上総介
 墓所  : 法界寺(樺崎八幡宮)
 官位  : 足利庄下司職、八条院蔵人、兵衛尉、上総介、従四位下
 父   : 源義康
       ※ 『難太平記』において源為朝の子と云う説が論じられています。
 母   : 藤原範忠の娘
 妻   : 北条時子北条時政の娘)
 子   : 畠山義純、桃井義助、義氏、桃井義胤(義助の子)
 法名  : 鑁阿寺殿貞山源嘯義稱上人(椛崎八幡宮、義称命)
 事績  :  
 後の足利氏発展の礎を築いた人物。 (事跡は別項を参照)
 ※ 誕生の年の明記がなく、また1157年に父義康を失くした後、義重の庇護の元に養育されます。
   『難太平記』では義康の実子では無く、義重の子であると書かれていれます。
   また、「史料通信叢誌. 第3編(p25)」にも 義兼は為朝の子という記述があります。
   為朝は、義兼の父、義康と保元の乱で対峙し敗れています。
   その後、大島に流刑になり、その地で討たれています。
   大変武勇に秀でた人物で、義康は為朝の武勇を惜しみ養子としたと記されています。


●義氏
 生没年 : 西暦1189年〜1255年
 別名  : 上総三郎、左馬頭入道正義
 墓所  : 法楽寺
 官位  : 三河守護、陸奥守、武蔵守、左馬頭、正四位下
 父   : 足利義兼、時子(北条時政の娘)
 母   : 時子(北条時政の娘)
 妻   : 北条泰時の娘
 子   : 吉良長氏、泰氏、吉良義継
 法名  : 法楽寺殿興山正義大居士(法楽寺殿正義大禅門)/正義八幡宮
 事績  :  
 鎌倉時代における足利氏の全盛期の当主。名前に”氏”が就くのは義氏以降となります。もともと”義”が源氏の一族の通字ですが、義氏以降名前に”義”の字を用いず、”氏”を通字にしています。源氏の血統を主張する事で北条一門を刺激する事を恐れて避けたのだと言われています。(確証はありません)
 義氏は武勇の人であったと伝わっています。
西暦1213年(建保元年五月)和田義盛の乱では、幕府政所の庭前で朝比奈三郎義秀と一騎討となり、義秀に鎧の袖をつかまれながらも互に引合い、 袖が引ちぎれながらも馬も倒れず、主も落ちず、見る者みなが「両士の勇力互に強弱なし」と驚歎したと言われています。
西暦1221年(承久三年)承久の乱では、時房、泰時と共に東海道の大将軍として出陣し、宇治川で官軍を破ります。
西暦1247年(宝治元年)三浦合戦(宝治合戦)では安達氏らと共に、三浦泰村らの一族、千葉秀胤の一族を滅ぼしています。
義氏はそれらの武功により、上総国を与えられ、武蔵守、陸奥守などを歴任するなど北条政権下において破格の待遇を受けます。

 このように足利氏の所領は本貫足利荘をはじめとして上総国・三河国などに広がり、それらの所領に一族や”高”氏などの有力な郎党を配し、管理・支配する機構が整えられてゆくと、”機構”の統括・運営する組織が鎌倉に作られます。こうして足利氏の活動基盤も鎌倉に移る事になります。
 ※ 足利氏の支配地域には、鎌倉幕府の機構を模した独立した行政組織が構築されます。こうした行政組織の力が一族の軍事的な動員能力を支える事になります。

その義氏が残した詠歌があります。(「続拾遺集」冬部)
霰(あられ)ふる 雲の通路(かよいじ) 風さえておとめのかざし 玉ぞみだるる

 余談になりますが、その頃の出来事が「徒然草」に記されています。執権北条時頼が義氏の鎌倉屋敷に立ち寄った時の事です。時頼が噂に聞く「足利の染物」を所望すると、義氏は用意してあった染物三十を小袖に仕立てて時頼に送り、その豪勢さが人々の語り草となったそうです。
参考文献


●泰氏
 生没年 :  西暦1216年〜1270年
 別名  : 足利三郎、平石殿
 墓所  : 平石八幡宮(智光寺)
 官位  : 丹後守、左衛門佐、右馬助、宮内少輔、正五位下
 父   : 足利義氏
 母   : 北条泰時の娘
 妻   : 正室:北条時氏の娘、側室:北条朝時の娘
 子   : 斯波家氏、渋川義顕、頼氏、石塔頼茂、一色公深、上野義弁、小俣賢宝、加古基氏
 法名  : 智光寺殿和山證阿大居士
 事績  :    
 鎌倉政権内の権力闘争の結果引き起こされた宮騒動(西暦1246年)や宝治合戦(西暦1247年)により有力御家人が力を失う中、足利氏は幕府宿老として重んじられてきましたが、西暦1251年に泰氏は突然、幕府に無届で出家してしまい足利一門は窮地に立たされます。
 当時は、幕府内での執権北条氏の独裁を確立したと言われる北条時頼の時代でした。


●頼氏
 生没年 : 西暦1240年〜1262年
 別名  : 足利三郎
 墓所  : 吉祥寺
 官位  : 従五位下、治部権大輔
 父   : 足利泰氏
 母   : 北条時氏の娘
 妻   : 北条時盛の娘
 子   : 家時
 法名  : 吉祥寺殿晃山義任大居士 (吉祥寺殿義念)
 事績  :  
 ※ 没年には諸説あり、吾妻鏡に基づき西暦1262年を記載します。
 墓所は足利市内の吉祥寺
 病弱であったと伝えられます。


●家時
 生没年 : 西暦1260年〜1284年
 別名  : 足利太郎、足利式部大夫、足利伊予守
 墓所  : 鎌倉功臣山報国寺
 官位  : 従五位下
 父   : 足利頼氏
 母   : 上杉重房の娘(側室)
 妻   : 正室:常葉時茂(北条茂時)の娘、側室:新田政氏の娘
 子   : 貞氏
 法名  : 報国寺殿行山義忠大居士 (報国寺殿義忍)
 事績  :  
 
 父である足利頼氏が無くなった時、家時はまだ幼く伯父である斯波家氏(足利家氏)が 代行として足利家を取り仕切ります。斯波家氏の所領は三河国でしたが、先に示した参考文献の通り、この当時には足利一門は既に鎌倉を中心として活動していたと推測されています。足利家時は当主の座に就く時に斯波家氏の”家”の字偏諱とします。義氏以降の通字である”氏”が途切れた事に違和感が有ります。また、家時の母も上杉重房の娘とされています。義兼以降、北条氏の血を引く者が当主であった事から考えると異例の出来事です。家時は西暦1284年(西暦1285年説もあり)に自害しています。歴代足利一族の中で最も謎の多いひとりです。

 家時の時代は、鎌倉政権では八代執権・北条時宗の時代です。その執権時代(西暦1268〜1284年)にはモンゴル帝国の日本侵攻(元寇)がありました。第一回は西暦1274年の文永の役、第二回は西暦1281年の弘安の役です。足利氏の直接の戦闘参加は有りませんが、これにより鎌倉政権が大きく揺らいでいく変化の時代です。家時の自害は八代執権北条時宗の死の年にあたります。時宗の死を切っ掛けに翌年に安達泰盛によって引き起こされた霜月騒動(西暦1285年)では足利の一族も連座し、家時の自害も無関係では無いと言われています。

 なお、家時の自害は「難太平記」に記された「鑁阿寺の置文伝説」で広く知られます。
 内容は源義家が「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」と書き残した願文に応えられない家時が「わが命を縮めて三代後の子孫に天下を取らせよと」と新たな願文を残し自害したと言われています。創作と言い切るのは簡単ですが、足利氏の執念を物語るのには十分な逸話ではあります。
 家時は、この「鑁阿寺」の興隆にも力を注いでいたと言われていますが、本来は家督相続者の位置にあった斯波家氏による活動と思われます。


●貞氏
 生没年 : 西暦1273年〜1331年
 別名  : 足利三郎、足利讃岐守、足利讃岐入道
 墓所  : 浄妙寺(神奈川県)
 官位  : 従五位下、讃岐守、贈従三位
 父   : 足利家時
 母   : 北条茂時の娘
 妻   : 正室:北条顕時の娘(釈迦堂殿)
       側室:上杉清子 (足利尊氏、直義の生母)
 子   : 高義、高氏(のち尊氏)高国(のち直義)
 法名  : 浄妙寺殿弘山義觀大居士
 事績  :  
 父、家時の自害により幼くして家督を相続する。足利家の執事であった”高”氏の補佐を受ける。
 尊氏の父として知られる事が多いのですが、家時の時代に鎌倉政権内で大きく後退した足利氏の地位を回復させ、尊氏・直義に繋がる足利一族内の組織を整えた事など大きな成果を残しています。
 家時時代の末の足利氏の状況を考えれば、貞氏無くして足利尊氏など存在出来なかったでしょう。


●尊氏
 生没年 : 西暦1305年〜1358年
 別名  : 足利又太郎
 墓所  : 京都府京都市北区萬年山等持院
       神奈川県鎌倉市寶亀山長寿寺
 官位  : 従五位上、鎮守府将軍、従四位下、左兵衛督、従三位、武蔵守、正三位、参議、
       征東将軍、従二位、権大納言、征夷大将軍、正二位、贈従一位、贈左大臣、
       贈従一位太政大臣
 父   : 足利貞氏
 母   : 上杉清子
 妻   : 正室:赤橋登子、 側室:加古基氏の娘、越前局、ほか
 子   : 竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王、他
 法名  : 等持院殿仁山妙義大居士
 事績  : 関連年表を参照  



『資料』 鎌倉時代の足利氏の所領(参照

足利荘 下野国 足利市全域及び佐野市・館林市の一部を含む
賀美(かみ)郡 陸奥国 宮城県加美郡
田井荘 河内国 大阪府八尾市内か
讃甘(さかみ)荘 美作国 岡山県英田郡大原町
広沢郷 上野国 桐生市広沢町
垪和(はが)東郷 美作国 岡山県久米郡旭町・中央町
垪和西郷 美作国 岡山県久米郡旭町・中央町
大佐貫郷 上野国 群馬県邑楽郡明和村
久多大見(くたおおみ) 山城国 京都市左京区内
放光寺 和泉国 岸和田市
黒田保 不明  
上総国   千葉県
市東西両郡 上総国 千葉県市原市
朝平郡 安房国 千葉県安房郡東南部
愛甲(あいこう)荘 相模国 神奈川県愛甲郡・厚木市
宮津荘 丹後国 京都府宮津市
友子荘 不明  
秋月(あきづき)荘 阿波国 徳島県板野郡土成町
稲岡(いなおか)南荘 美作国 岡山県久米都久米南町
土田上(つちだかみ)荘 能登国 石川県羽咋郡志賀町
宮瀬(みやがせ)村 相模国 神奈川県愛甲郡清川村
賀治山村 不明  
参河国   愛知県
額田(ぬかだ)郡 三河国 愛知県額田郡・岡崎市
設楽(しだら)郡 三河国 愛知県南設楽郡・北設楽郡
富永保 三河国 愛知県新城市富永か
八田(やた)郷 丹波国 京都府綾部市
宇甘(うかん)郷 備前国 岡山県御津郡御津町
漢部(あやべ)郷 丹波国 京都府綾部市
新野郷 美作国 岡山県津山市
田中郷 美作国 岡山県津山市
田邑(たのむら)郷 美作国 岡山県津山市
戸栗重富 筑前国 福岡県福岡市西区戸切・早良郡早良町重留か
阿土熊 不明  

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