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3.鎌倉時代・足利氏の胎動(人物)

 政治の主導権が貴族から武士へと遷り変る12世紀の後半、八幡太郎義家の子孫らにより鎌倉幕府が開かれ、名実ともに武士の時代が幕を開けます。
 ここでは鎌倉幕府開府までの時代に義兼と、その取り巻く人々の活躍を見て行く事とします。

● 源 義朝 【生没年:西暦1123年〜1160年】
 ※ 源頼朝の父。関東に勢力を張り、保元の乱で活躍するも、平治の乱で武運拙く討たれてしまう。
 義朝は、父・為義に疎まれ、少年期に坂東・上総国に下向させられています。しかし武勇に秀でた義朝は上総国の武士を糾合し関東(坂東)南部を勢力下に収めると本拠地を相模国に移し坂東経営に臨みます。
 その結果、隣国武蔵国において義国流源氏一族と領域を接する事になりますが、義国の次男・義康とは義朝・正室の義妹(父・藤原季範が孫娘を養女とした娘)を娶らせ相婿となり、同時に義国の長男・義重の娘を義朝の長男・義平の正室に貰い受けて強固な同盟関係を構築しました。

 義朝は、源氏宗家・源為義の長男でありながら、父・為義とは競合関係にありました。ゆえに為義は義朝が下野守に任じられると対抗するかのように次男・義賢を坂東に下向させ勢力の拡大を図らせています。しかし、義賢は後に保元の乱の前哨戦と言われる大蔵合戦により、義朝の長男・義平と、義平の舅である新田義重の連合勢力により討たれます。これにより為義の勢力は坂東から駆逐されてしまいました。そして為義自身も翌年の保元の乱で敗死しします。
 尚、この義朝の三男が後に鎌倉幕府を開く源頼朝です。別項の記述になりますが義国流源氏に対する頼朝の厚情は、こうした関係により得られたとも考えられています。

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● 源 義重(新田義重) 【生没年:西暦1114年〜1202年】

 源義国の長男・源義重。「新田氏」の始祖として新田義重とも呼ばれます。
 弟・義康が都での活動を主としていたのに対し、義重もまた西暦1153年には内舎人に任官していたと山槐記に記されますが、前半生の活動は主に坂東(関東)にあった義国の所領であったと考えられます。その後、西暦1150年に勅勘を蒙り足利荘に蟄居した父・義国と共に、荒廃していた新田郡を再開発し、その地を相続したことから新田氏の祖として伝わります。
【補足】
✔ 「再開発」と記しましたが、実際に墾田開発や荒廃耕作地の復興を行ったとは考えられません。浅間山の噴火により支配関係が曖昧になった耕作地および田堵や農民などの耕作者を支配下に組み入れたと考えられます。実際に新田荘として寄進された諸郷は、利根川近郊の比較的利水の便が良い場所であり、噴火後数十年もの間、再開発を待つ放棄地であったとは考えられません。
✔ 義国が父、義家から伝領した場所は、上野国碓氷郡八幡荘であり、一般に考えられる「足利荘」を主としていたわけではありません。しかし八幡荘地域は西暦1108年の浅間山の大噴火により甚大な被害を蒙ったと考えられ、その結果、足利方面に拠点を移動したと考えられます。

 義重が歴史の表舞台に登場するのは、西暦1180年の以仁王の令旨に始まる治承・寿永の乱(源平争乱)での事です。この時、義国流源氏一族は複雑な状況下に置かれる事となりました。
【状況】
@ 源氏と平氏の関係
  別項にも記したとおり、義国流源氏と源氏宗家との関係は二重の縁で結ばれた同盟者でした。その関係は頼朝から見れば、義重の娘は兄嫁であり、義重の弟・義康の妻は叔母にあたります。
 しかし平治の乱以後、源氏宗家は没落し、義重は平氏の良き協力者となり所領を安堵されています。例えば新田荘を成立させるにあたっての寄進先も平家筋であり、義重の一族も平家の庇護を受けた被官に相当する位置づけでした。
 つまり当時の義国流源氏からみた平氏は、必ずしも憎しみの対象では有りませんでした。

A 藤姓足利氏との関係
 勃興著しい藤姓足利氏の存在も義重を悩ませています。
 義重の父・義国と藤姓足利氏は、領家と荘官という関係で協力して足利荘を成立させましたが、その後の梁田・御厨問題により緊張関係となっていました。
 藤姓足利氏は上野南部から下野国南部に至る領域に影響力を持つ平家寄りの氏族であり、治承・寿永の乱においていち早く平家方として参戦し、初戦の宇治川の合戦では手柄をあげています。
 問題は、藤姓足利氏・俊綱が宇治川の合戦の論功行賞として上野介の地位と新田郡の領有を求めた事にあります。一旦、その要求は受け入れられますが藤姓足利氏一族の反対により取り消されます。 この論功行賞は藤姓足利氏の義国流源氏に対する野心の一端を明らかにする結果となりました。

B 義仲の動向
 義仲は義重が父・義国から伝領した八幡荘に近接する多胡郡を相続した義賢の子です。以仁王の令旨に呼応し当初、多胡郡で兵を募りますが、最終的には信濃に戻って挙兵しています。
 義仲の「多胡郡での募兵」という行動の意図した所は定かではありませんが、その行動が義重ならびに藤姓足利氏までも刺激したことは間違えありません。両者は義仲の父、義賢が討ち取られた大蔵合戦には共に参戦しており、義仲の仇敵とも呼べる存在だったのです。
 その後、義仲が信濃に撤退した時期と、義重が募兵の為、八幡荘南部の寺尾城に拠った時期が重なるため、二つの事象には何らかの関連性があると考えられます。
 その後、義仲はいち早く上洛を果たし都から平氏を追い落としましたが、朝廷との関係が悪化し、更に平氏からも反撃を受け、粟津の戦いにおいて、頼朝旗下にあった範頼・義経により義仲は討たれてしまいます。

C 弟・義康の遺児、義清の動向
 義清は義重の弟、義康の長子です。後に足利氏の二代目として記される義兼の兄です。
 梁田御厨を相続していたという説や、矢田判官を名乗っていた事から八幡荘矢田郷を相続した説など有りますが、父・義康同様に活動の舞台は都であり所領を直接治めてはいません。
 義清は義重の猶子となりその娘を娶り、坂東(関東)の所領も義重の管理するところに在ったと推察されますが、治承・寿永の乱に際しては義仲と行動を共にしています。
 この点に疑問が生じます。歴史的経緯から考えれば義重と義仲は対立関係にあるのですが、実際には庇護下にあった甥をその旗下に入れさせています。そうなると義仲と義重の間で何らかの密約が交わされ、その結果、義仲は信濃に退き、代わりに義重が寺尾城に籠った事が考えられます。むろん、その目的は、当時平家方として旗幟を鮮明にしていた藤姓足利氏に備える為です。
 しかし義清は平家との戦い(水島の戦い)で弟・義長と共に戦死し、足利氏の名跡は三男義兼が継ぐこととなり、また義仲自身も頼朝に討たれてしまいます。

D 頼朝に対する義重の矜持
 頼朝は義重の盟友であった義朝の忘れ形見であり、源氏の嫡流でもあります。
 しかし義重にすれば自らは八幡太郎義家の孫であり、平治の乱により没落した源氏宗家より「我こそ源氏の頭領として相応しい」という気概が強かったと言われています。そのため、頼朝の挙兵に際して旗下に加わる事を躊躇い、遅参したのだと考えられています。
 ところが義重の一族の中から(子・山名義範/孫・里見義成/甥・足利義兼)は、義重の意に反して頼朝の旗下に参向する者が出ています。それが本当に義重の意に反してなのか、内諾を得ての行動であるかは定かではありません。
 思うに当時の義重の戦略としては、平氏に対抗するために源氏一門の連合が重要と考え、その中で存在を維持するためには、最低限のつながりを保ちつつも自立の姿勢を取る必要があると考えたのだと思います。その考えの大前提としては、言うまでもなく源氏勢力に拮抗する「平氏勢力」の存在が不可欠でした。しかしその平氏が思いのほか脆く崩れ去った事は義重にとっては大きな誤算でした。
 源氏一門にとっての戦略目標である平氏追討が、頼朝の単独勢力で実現可能と確認された時点で、旗下に参じない勢力はすべて敵対勢力となったのです。

※下図の黄色は平家方、緑色は源氏方

【その後の情勢】
 頼朝は富士川での戦勝の後、後背の憂い絶つ目的から常陸国の佐竹氏、常陸平氏の掃討を優先させます。常陸国の佐竹氏、常陸平氏は金砂城の戦いで討伐されます。その後も小山朝政と共に野木宮合戦において志田義広と藤姓足利氏を滅ぼしています。

 このような状況下で新田義重は源頼朝に対する去就の判断を迫られたのです。
 結果的には頼朝旗下に参じる時期を遅らせ事が、鎌倉時代を通じて新田氏が不遇な扱いを受ける原因となり、義重の行動は現在に至るまで”新田の日和見”と揶揄される事になります。

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● 源 義康(足利義康) 【生没年:西暦1127年〜1157】

 足利氏初代であり、足利義兼の父。
 義康は義国の次男であり、義重の弟。1147年に20歳で京都に赴き、北面武士として天皇の近衛として働きます。保元の乱に際しては源義朝と共に後白河天皇側に参陣し、平清盛の300騎、義朝の200騎につづき、義康も100騎の武者を従え活躍しましたが、残念ながら翌年、急逝してしまいます。

● 義康の正妻は義朝の妻の義妹であり、両者は相婿の関係に有った。
● 義康と正妻との間に生まれた子供が三男の義兼であり、源頼朝とは従兄弟の関係。
● 義兼は義康の嫡流として足利の名跡を相続したと言われますが、実際に家督を継承したのは長子・義清(梁田御厨を領有)であったと考えられます。そもそも当時、足利荘は義国流源氏の手を離れ藤姓足利氏の支配下にあったと考える方が妥当であり、義兼が足利氏の名跡を名実ともに継承したのは、頼朝から足利全域の領有を委ねられて以降と考えられます。

 義康と足利との関わりを直接残す史跡はありませんが、鑁阿寺の赤御堂には義国と義康が祀られており、また鑁阿寺小史の記述によれば、足利菅田の光得寺東隣に位置する稲荷山に義康の陵墓があると伝えられています。

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● 源 頼朝 【生没年:西暦1147年〜1199年】
  源氏宗家・源義朝の三男であり、後に鎌倉幕府を開く。足利義兼と従兄弟関係にある。
 平治の乱では、父・義朝、兄・義平、朝長を平氏によって討たれ、自らは伊豆国に流刑となりました。
 しかし、その地に於いて、北条時政の長女・政子を娶り、北条氏の後見を得る事になります。
 その後、以仁王の令旨に従い挙兵した頼朝は、平家打倒の兵を挙げるも石橋山の戦いに敗れ一旦は安房国に逃れましたが、上総氏、千葉氏の加勢を得て盛り返すと、富士川の合戦において平氏を打ち破り、鎌倉に拠点を置く事になりました。

足利義兼が参陣したのはこの頃と考えられています。

※ 上は源頼朝とされていた肖像。近年では、足利尊氏の弟足利直義の像であると言われています。


 頼朝の母親と義兼の母は血縁としては叔母と姪の関係にありますが、養子縁組の関係から系図上は義理の姉妹となります。従って頼朝の父・義朝と義兼の父・義康は相婿の間柄となります。
 義兼の二人の兄は都にあって義仲の陣営に参じており、叔父である新田義重は静観を決めていた時期、初戦に敗れた頼朝の元に義兼がいち早く参陣した事はこの血縁によるとも言われています。

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● 足利 義兼 【生没年:西暦1154〜1199年】

 足利義兼は治承・寿永の乱(源平争乱)の後、足利に根を下し、晩年に鑁阿寺を創建しています。幼い頃、父・義康を病で失い、新田義重の庇護の元に坂東(足利・新田)で成長したと伝わります。
 義兼には2人の兄(足利義清、義長)がおり、両兄ともに父・義康同様、京都で活動しており、治承・寿永の乱における行動も異なります。
※ 義兼の出生ついては、後年、今川了俊著作の『難太平記』において、”源為朝(為義の子)の忘れ形見”と記されています。
 義兼は一時期上洛し八条院蔵人として勤めたとも言われていますが、詳細な活動記録は見当たりません。義兼が表舞台に登場するのは西暦1180年からの治承・寿永の乱(源平争乱)を待つ事となります。

 義兼は同族の山名義範、里見義成らと同様に源頼朝の元に参陣した時、供回りの者は5騎程度だったと伝えられています。その行動が自らの判断であるか、義重の指示であるかは不明です。
 
 義兼はそもそも頼朝の従弟にあたり同族の中でも厚遇され、頼朝に近侍する事になります。そして治承・寿永の乱(源平争乱)や奥州征伐に参加し、"大河兼任の反乱"の鎮定に際しては追討使として活躍しています。


 義兼がどの時点で"足利経営"を始めたのかを明示した資料は手元に有りません。
 ここでいう"足利経営"とは、知行権を有する領主としての足利支配を指します。一般に源義国が藤姓足利氏と共に立荘した足利荘に対して、知行権を有していた実際の領主は藤姓足利氏です。足利姓を名乗っていても、源姓足利氏初代・義康は名目だけの存在でした。
※ 一方、新田荘、梁田御厨などは、義国流源氏が名実共に支配していたと考えられます。
 少なくとも西暦1180年の以仁王の挙兵に関連した宇治川の合戦〜西暦1183年の野木宮合戦までの間、義国流源氏と藤姓足利氏は緊張状態に在ったので、足利荘域は藤姓足利氏(俊綱・忠綱親子)が源姓足利氏の関与を排除し、支配していたと考える事が妥当です。

 足利の所領経営を始めた義兼の行動に関しては若干、不思議に感じる点があります。
 それは、先祖の残した史跡を保護した形跡が無い点です。創建に関与した鑁阿寺、樺崎寺でさえ、当初は「足利氏の祖先を祀る」目的であったとは考えられません。

※ 鑁阿寺の赤御堂は「義国・義康の墓所」と言われていますが、本来墓所となるべき場所は、義国創建と言われる「寳幢寺」や義康創建とされる「鑁歳寺」であると思われます。それらの所在が不明な事は、義兼が先祖の霊廟を保護する事に全くの無関心であったと感じられます。

● 法界寺跡・樺崎八幡宮 


 西暦1199年、急逝した頼朝の後を追う様に、義兼は自らが創建した法界寺において生入定します。
後に法界寺は、嫡男・足利義氏により八幡神が勧請され、樺崎八幡宮として義兼の御霊を祀ります。
 

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● 奥州合戦〜大河兼任の反乱における義兼の活躍

 平家の滅亡と共に義経も都から逃走し、奥州藤原氏を頼ります。頼朝は義経追捕を理由に、奥州藤原氏の討伐を決意し、足利義兼も従軍します。 奥州藤原氏滅亡後の1190年、奥州出羽の国で義経や先の義高の名を語る反乱が発生し頼朝を激怒させます。足利義兼はこの反乱鎮圧で抜群の戦功を記します。

大河兼任の反乱の概要
【反乱の原因】藤原氏滅亡後の坂東武者と在地勢力との軋轢
【義兼の役】追討使(追討軍のNo2?)
【反乱軍の規模】約1万騎が平泉から現在の宮城県北部の栗原郡まで進出。
【戦闘】義兼率いる鎌倉軍は宮城県北部の栗原郡で反乱軍を撃破。更に義兼らは敗退し山に籠った反乱軍を追い立てる。
【大河兼任の最後】逃亡途中、樵(きこり)に見咎められて惨殺される。

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● 鑁阿寺の創建―義兼の出家―

 義兼は晩年、妻時子の死の年(と言われている)に、鑁阿寺を創建しています。この鑁阿寺は義兼の父義康が12世紀中頃に居を構えた居館であるとの記述もありますが、その時期は、藤姓足利氏との緊張が高まり、義康、義国が他界し、中央では保元・平治の乱が発生した混乱期にあたります。更に当時この地域に源姓足利氏の安定した支配権が存在した確証も有りません。
 従って鑁阿寺となった居館とは、藤姓足利氏の物を義兼が手直しをして居住した物であったか、または義兼が新たに築いたものであると推測されています。鑁阿寺は、その居館を寺とした物です。

 鑁阿寺十二坊

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