3.鎌倉時代・足利氏の胎動(足利のはじまりと義兼)
足利義兼の誕生(西暦1154年)年代以降、政治の実権は朝廷貴族の手から次第に武士の手へと移ってゆきます。やがて平氏と源氏との間で生じた治承・寿永の乱の結果、足利氏と同じ源義家の血を引く源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府を開く事となります。
ここでは義兼が誕生した保元の乱前夜の時代から、治承・寿永の乱を経て義兼が足利の支配を確立させ、一族繁栄の基礎を築く時代についてみてゆきます。
※ 人物情報は左メニューから人物名をクリックしてください。
足利義兼の誕生から平氏の台頭
義兼誕生当時の坂東(関東)では、寄進系荘園領主となった武士が勢力を増大させ、特に源氏の血筋の者を当主に据えた新興勢力(源義国、源義朝、源義賢)が勢力を拡大してゆきました。
やがて源義朝が下野守となり、関東における地盤を強固なものとしてゆきますが、義朝の父であり源家当主である為義と義朝は対立し、為義は次男の義賢を嫡子と定めて坂東経営に赴かせます。その結果、義朝の嫡子である義平と義賢との間で大蔵合戦が勃発し、源義賢が討たれました。この戦いに源義国の長男・義重(義平の義父でもある)と藤姓足利氏とが義朝側として参戦しています。
また翌年、都において天皇家の内紛に端を発した保元の乱では、源義朝は後白河天皇方として参戦し、崇徳上皇方となった父・源為義、弟・為朝と再び敵対します。戦いに敗れた為義は、義朝の手により斬首され、為朝も伊豆大島に流刑となりました。この戦いでは源義国の次男・足利義康が義朝方として参戦し、大いに活躍しましたが、残念ながら病を得て早逝してしまいます。(藤姓足利氏・俊綱も義朝配下として参陣しています。)
そして四年後、再び都で勃発した平治の乱で平清盛・重盛親子と対立した源義朝・義平親子が討たれ、平氏が権力を掌中に収める中、源氏は逼塞の時代を迎えます。
その間、義国流源氏はひとり残された新田義重が平氏との間に良好な関係を保ちながら領地経営を進め、義康の子供達もまた都において活動して行きました。
1153年 | 源義朝、下野国守に任じられる。 源(新田)義重が内舎人となる |
1154年 | 足利義兼 誕生 |
1155年 | 源義平、大蔵合戦において源義賢を討つ。 源義国逝去 近衛天皇崩御・後白河天皇即位 |
1156年 | 鳥羽上皇崩御 保元の乱 源義朝が父為義を討つ。 |
1157年 | 源義康(足利初代)逝去。 同年、新田荘成立 |
1158年 | 後白河天皇退位・二条天皇即位 |
1165年 | 二条天皇崩御・六条天皇即位 |
1168年 | 源義重、従五位下となる。 六条天皇退位・高倉天皇即位 |
1160年 |
平治の乱 源義朝、義平らが敗死する。 |
1161年 | 下野・藤姓足利氏との梁田御厨地主争い(給主の地位(=知行権)の争い)が平重盛(または清盛)の裁定で決着 |
治承・寿永の乱(鎌倉幕府の成立と足利義兼の登場)
平治の乱から20年後、以仁王が発した平氏追討の令旨に応じ、源頼朝や源(木曽)義仲など源氏一族が各地で蜂起します。これが治承・寿永の乱のはじまりとなります。
この時、源(新田)義重は、寺尾城において兵を募りながらも旗幟を鮮明にせず、自立(中立)の姿勢を示しますが、一方では足利義兼などの一族が頼朝の旗下に参じています。やがて源頼朝は富士川の合戦で平氏を敗退させると坂東における覇権を確かなものとし、敵対氏族の討伐を進めます。時ここに至って、新田(源)義重は頼朝の元を訪れます。
1180年3月 | 高倉天皇退位・安徳天皇即位(平清盛の孫) |
1180年4月 | 以仁王の令旨が発せられる (治承・寿永の乱のはじまり) |
5月 | 宇治川の合戦で藤姓足利氏忠綱が活躍し、以仁王は討死する。 ※ 藤姓足利忠綱はこの論功行賞として"新田郡域"を要望する。 木曽義仲が5月頃上野国多胡郡で挙兵準備の為に兵を募る |
8月 | 源頼朝が挙兵(足利義兼の参陣はこの頃と考えられている) 北条時政、韮山の山木兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討つ 頼朝、石橋山の戦いに敗れ安房国に逃れる 26日 新田義重、上野国寺尾城で兵を集める(山槐記の記述) 28日 石橋山の戦況を平清盛に報ず 足利忠綱(藤姓)上野国府を焼く |
9月 | 頼朝、安房国から上総、下総と進軍し千葉勢などと共に鎌倉に進む 新田義重が寺尾城において兵を募る(吾妻鏡の記述) 木曽義仲が信濃に戻る |
10月 |
頼朝、駿河国富士川で平維盛軍と対峙する。 (平氏勢は水鳥の音に驚き壊走する) 頼朝、義経と再会し合流する |
11月 |
頼朝、佐竹秀義討伐の兵をあげる(金砂城の戦い) |
12月 | 頼朝が鎌倉大蔵郷の新亭に移る。足利義兼、山名義範が供奉 (吾妻鏡の記述) ※ 山名義範は義重の子供。異説として、ここに登場する義範は、義兼の兄である足利義清の子では無いかとも言われている 22日 新田義重が頼朝の元に参じる。 |
治承・寿永の乱の結果、平家一族は勿論、以仁王に与した摂津源氏の源頼政、木曽源氏の木曽義仲等同族、更に源範頼、義経などの兄弟、また藤姓足利氏、奥州藤原氏などの有力地方氏族が次々と滅亡してゆきます。その中で足利義兼は源頼朝の猜疑をかい潜り献身的に奉公し、その功と北条氏との血縁により足利支配を確立する事になります。この足利氏の献身と台頭、そして北条氏との血縁こそ、この後、足利・新田両氏の命脈を存続させる力となりました。
1181年 | 足利義兼が源頼朝の仲立ちにより北条時子を娶る。 平清盛死去 |
1182年 | 西日本で養和の飢饉が発生 京都市中で4万2300人の餓死者 |
1183年 | 常陸国の源義広が藤姓足利氏・忠綱と共に挙兵し鎌倉を伺う 2月 野木宮合戦勃発 小山朝政により志田義広、藤姓足利氏・俊綱、忠綱親子は敗北。 ※ 足利忠綱は上野山上郷に蟄居するも桐生六郎の諫で西海に赴く (吾妻鏡の記述) 藤姓足利氏滅亡 源義広・行家は木曽義仲の元に逃れて保護される事になり、頼朝と義仲の間に遺恨を生じさせます。 5月 倶利伽羅峠の戦い。 7月 義仲入京 11月 水島の戦い 義仲軍敗退。足利義兼の兄、義清、義長が討死する。 |
1184年 | 木曽義仲、粟津の戦いで源義経によって討たれる 義兼、義仲の子・義高残党の討伐で戦功あり 摂津国・一の谷の合戦 |
1185年 |
讃岐国・屋島の合戦 周防国・壇ノ浦の合戦 平家滅亡 足利義兼 源頼朝の知行国のひとつ上総国の国司に推挙される。 |
1186年 | 義経の追捕・奥州藤原氏の元に逃走 東大寺の再建開始 |
1187年〜1189年 |
奥州合戦 足利義兼、藤原氏討伐に従軍 源義経自害、奥州藤原氏滅亡 |
1190年 | 頼朝上洛 足利義兼 出羽国・大河兼任の反乱を鎮圧 |
1192年 | 後白河法皇崩御 源頼朝が征夷大将軍となる。 |
1193年 | 頼朝、那須野・三原の借りの帰途、新田屋敷を遊覧 |
1195年 | 東大寺再建・頼朝上洛 足利義兼 東大寺で出家 |
1196年 | 義兼、鑁阿寺を創建する 義兼の正室(北条)時子死没 |
1199年 | 源頼朝 逝去(1月) 足利義兼 逝去 義兼が創建した法界寺に、嫡男・足利義氏が八幡神を勧請し、樺崎八幡宮として義兼の御霊を祀る。 |
1202年 | 新田義重 逝去 |
足利義兼とは誰なのか?
足利義兼は、室町幕府を創設した足利尊氏の直系の祖先であり、足利氏興隆の基礎を築いた人物です。義兼は足利に文化の息吹を持ち込み、今に残る建造物を建築し、この地に多くの足跡を残しましたが、頼朝の旗下に参じた時点が歴史上ではほぼ初見であり、それ以前の状況はほとんど判っていません。
一般に義兼は足利氏初代・義康の三男と言われますが、後代、義兼の子孫にあたる今川貞世(今川了俊)の著作「難太平記」の中には、義康が保元の乱で戦った源為朝の子を庇護し、育てた者こそが義兼であるなどとも記されています。
● 義兼は二人居た!?
足利義兼という名前はあくまで俗称であり、正式名(朝廷に名乗る名前)は「源朝臣義兼」となります。公文書には源姓で記録され、公卿の日記などの私文書に俗称が用いられた事も有ったようです。しかし義重・義康は終生公私にわたって源性を名乗ったと伝わります。
足利義兼が歴史に登場した時期、他にも"義兼"の名を持つ人物がいました。源(新田)義重の嫡男、義兼です。歳は義重の嫡男が15歳上ですが、同族の従兄弟であり、正式名は共に「源朝臣義兼」となってしまいます。従って両者に関する文書が存在していても、それがいずれの人物であるか特定できない事になります。
つまり「義兼は源(新田)義重の庇護の下、足利荘(?梁田御厨)の荘官で在った」という説や、「都で八条院に仕えていた」という説を裏付ける何らかの文書が存在していたとしても、そこに記された名前が「源朝臣義兼」であったならば、義重の嫡男・義兼と区別できない事になります。それは大胆に注釈を加えれば、足利義兼なる人物が頼朝の旗下に参ずる前には「存在しない人物だった」であるとか、「新田義兼と同一人物だった」という可能性さえあると云う事なのです。
しかし仮に足利義兼が"存在しない人物"であったとしても、実際には歴史が証明する通り、頼朝の挙兵と共にその名を歴史に刻み、足利を作り上げています。では、いったい足利義兼は誰なのでしょうか?
● 当時、偽者が横行していた!
この当時、義兼の他にも"偽者疑惑"が今に伝わる人物がいます。源頼朝の弟、源範頼と源義経です。両者ともに頼朝旗下に参ずる前の消息は曖昧であり、源範頼は藤原範季の庇護の下、甲斐源氏と行動を共にしており、義経もまた奥州藤原氏の庇護の下にありました。
● 頼朝は偽者さえも気にしない!
源頼朝という人物は、非情な現実主義者であったようで、両者が真の兄弟である事よりも、その両者の後ろ盾に興味が有ったと考えられます。
実際、頼朝は疑う素振りもなく両者を兄弟として受け入れた事で、範頼の甲斐源氏を平氏追討の直接戦力に加え、奥州藤原氏の存在により坂東(関東)北部の諸豪族を牽制する事が出来ました。無論、源氏宗家の一族兄弟が一致協力して平家に立ち向かうという点も重要だったと思われます。実際、頼朝の挙兵後、他の兄弟も頼朝に合流しています。しかし、いずれも有力な後ろ盾を持っておらず活躍する事はありませんでした。その点に関して頼朝は兄弟だからと情に流され、功績なく重職に取り立てる事は無かったようです。
● 義兼が偽者だったならば!?
では、頼朝にとって義兼の存在はどのような「利用価値」が有ったのでしょうか?
それについては「足利氏」が、頼朝にとって唯一ともいえる勝利の記憶につながる氏族である点があげられます。足利氏は父・義朝と共に「保元の乱」を戦い勝利を得た同盟者でした。逆に足利義康の早逝により、足利氏と共闘できなかった「平治の乱」に源氏は敗北しています。占いで戦術を決めるような時代である事を考慮すれば「足利氏参陣」の有無が周囲に与える影響は大きかったと考えられます。
※ 義重・義康共に新田・足利を自称していない事は先に記した通りですが、同族であり、宗家の立場にあった義朝・頼朝親子からは、両氏を新田義重、足利義康と認識していたと考えられます。
足利氏の末裔である足利義兼の存在を捏造した人物を特定するとするならば、偽者を平氏追討の戦意高揚に役立てた源頼朝(もしくは北条時政)であったと考えられます。
今川貞世(今川了俊)の著作「難太平記」の記載を考慮するならば、もしかすると義重の下などで保護されていた源為朝の忘れ形見が「源朝臣義兼の名代」として頼朝の元に赴いたところで頼朝により足利義兼を名乗らされたという流れも有るかもしれません。
● 義兼の引き際に見る偽者疑惑
いずれにしても、頼朝にとって「足利氏」の参陣は待ち侘びていた事であり、僅かな手兵しか有していなかった義兼に妻の妹を娶らせ、義兄弟となるという頼朝の破格の歓待ぶりからも、その喜びと期待の大きさを知ることはできます。
※ 義兼に時子を娶らせて義理の兄弟となった事は、頼朝の父・義朝と、義兼の父・義康が、相婿の関係となり、共に保元の乱を戦い勝利した故事にちなんだ事と思われます。
そうする内に頼朝は平氏の討伐を成し遂げ天下統一を果たし、名実ともに最大の権力者となりましたから、仮に足利義兼が偽者であったとしても、本人も、また秘密を知る周囲の者もその事を口外する事は無かったと思います。
やがて先に名前の挙がった範頼・義経は歴史から退場しています。なぜ"退場"という意味深な表現を用いるかと言えば、この両者は共に亡骸(死)を確認されていません。義経に関しては「義経伝説」が有名なので、ご存知の方も多いでしょう。
実は義兼もまた両者と同じく公に亡骸(死)が確認されてはいません。
義兼は、頼朝の死に際し生入定という方法による殉死を選びました。生入定とは、生きながら土中に籠り命を絶ち、即身仏となる修行です。従って「死後、直ぐに遺体を改められる事が無い」点が疑惑を深めます。死を装うには最も適した選択だったと言えます。
※ 「生入定」という修行は、事前に数十年にわたる修行を経た後に行う仕上げの修行です。義兼がそれほど長い修行を行っていたという形跡はありません。
なお義兼が生入定を果たしたと伝わる場所は、足利の樺崎八幡宮の社殿の下であると伝わっています。未だにその場所を掘り起こしたという記録は見られないので、仮に義兼偽者説を確かめるとするならば、その場所の発掘調査は一つの方法かもしれません。