源義国と関係する人物
源姓足利氏にとって、12世紀(西暦1101〜1200年)の100年間が、後の時代での発展の礎を築く重要な時代となります。ここではその前半で活躍する人物を見て行きます。
● 源 義家 【生没年:西暦1039年〜1106年】
八幡太郎義家
武家の棟梁、源頼朝、足利尊氏に繋がる祖として有名
源氏の棟梁である源義家は、前九年の役(西暦1051年〜)から後三年の役(〜西暦1087年)の間、東山道の駅が有った足利を幾度となく通過したと考えられます。当時、引き連れた兵を駐屯させた場所に”大将陣”という地名が今も残されています。他にも、義家が源頼義(義家の父)と共に石清水八幡宮を勧請したと伝わる下野国一社八幡宮をはじめ、多くの寺社の縁起にその名を見いだせます。
後に義家から四男・源義国に伝領したと言われる足利の所領は、前九年の役(〜西暦1062年)の後、下野守(西暦1070年頃)となった義家が、在地領主の藤姓足利氏から寄進を受けたと考えられています。
室町時代、義家の子孫にあたる今川了俊が『難太平記』に記した”鑁阿寺の置き文”には、義家が「我七代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書き残されていたと言われています。(真偽・存在は不明)そして義家から数えて七代後の子孫(義家を初代とすると八代目)にあたる足利家時は、”置き文”の願いを叶える事の出来ない我が身を嘆き、「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」と残して腹を切ったという伝説があります。その三代後に当たるのが足利尊氏です。
尚、昭和初期の頃まで、源義国は藤姓足利氏の娘と源義家の間に生まれ、足利で育ったと考えられていたようですが、現在では完全に否定されています。

義家が石清水八幡宮(男山八幡)を勧請し創建したと伝わる下野国一社八幡宮本殿。
● 源 義国 【生没年:西暦1084年〜1155年】
□ 足利式部大夫、荒加賀入道と称した、義家の四男、源義国。
源義家の四男(生年に関して、西暦1082年、1084年、1091年と諸説あります。本編では西暦1084年生まれで義忠の弟・四男として考えています。異説として西暦1082年説を採用し三男であるという説も有ります。)
ところで、義国が名乗った「荒加賀(あらかが)入道」とは、「足利(あしかが)入道」をひねった名前と言う俗説が有るようです。
□ 義家から伝領したのは足利だけなのか?
一般に足利の地(当時は荘園として未成立)を、義家から伝領したと言われますが、Wikipediaの記載などには、"上野国(群馬県)の八幡荘を相続した"とも記されています。
八幡荘は碓氷郡の一角にあり、現在の高崎市の西方に位置しています。上野国国府が有ったとされる群馬県前橋市元総社町総社町にも近い要衝の地です。さらに東南方向に位置する多胡郡も源氏一族(義国の兄・義親の系図)の所領であり、その後の歴史に何度も登場する重要地です。
その上、当時の足利は既に藤姓足利氏による支配が行われており、その地を第一の所領と考える事には無理があります。しかし、その後の浅間山の噴火により八幡荘に甚大な被害が生じた事から、結果的に義国の軸足が足利に移っていったのだと考えた方が良いかもしれません。
□ 藤原敦基の娘と新田荘の関係
源義国には妻とされる女性が2人記されています。そのひとりは上野介・藤原敦基の娘です。藤原敦基が上野介として在地勤務していたかは定かでは有りませんが、上野国を通じて義国と接点が有ったと思われます。
義国は後に、長男義重と共に浅間山の大噴火で荒廃した新田荘を再興し所領としていますが、新田荘域には藤原敦基名義の荘園が多数存在していたと言われ、また義重の母が藤原敦基の娘であったとも言われています。この事が新田荘再開発の潤滑油となった可能性は考えられます。
□ 源義国の血筋が歴史を作った
義国は、足利氏と新田氏の共通の祖となる人物であり、
鎌倉・室町の両時代を通じて活躍する様々な人物の共通の祖先にあたります。足利尊氏も新田義貞も義国の子供から分かれた一族の末裔です。また戦国時代にもその血筋が時代の中心で活躍しています。
この源義国からはじまる一族を義国流源氏と呼びます。
義国の足利における活動に関する詳細な記録は見当たらず、僅かに西暦1101年に常陸国の佐竹昌義討伐の記録が近隣での活動記録として残されています。足利郷土大年表によれば、西暦1126年頃まで、藤姓足利氏・行国(三宝院に墓所)が義国に代わり足利の所領を治めていたようです。
□ 源義国は足利で謹慎したのか? 義国は気性激しく、粗暴な一面が有ったとされます。 晩年(西暦1150年)には、都において義国の郎党が狼藉を働き、勅勘を蒙り足利(新田)に謹慎する事になりました。 義国の謹慎先は足利荘大野と云う記録が有ります。現在の市内・大町から旭町のあたりの地名です。また戒名にある「寳幢寺」という寺は、この頃建立されたと考えられています。足利市史によれば場所は現在の市内緑町八雲神社の所在地とされています。(現在八雲神社の鎮座地は、明治10年(1877年)に移転された場所です。) |
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※ 八雲神社の社史によると「応徳元年(1084年)に源義国により足利郡と梁田郡の総鎮守とされている」と有ります。仮に義国の出生が西暦1082年で有っても年齢は2歳前後であり、恐らく藤姓の足利行国が名代として通達したのだと推測しています。
□ 源義国の菩提寺「寳幢寺(ほうとうじ)」はどこか? 寳幢寺の場所に関しては今も定かでは有りませんが、国立国会図書館所蔵の資料に二つの古い(寛文四年と明治三十年)地図が記されていました。そこには寳幢寺という名前の異なる場所が二か所あります。 ![]() ![]() □ 源義国と源一族 八幡太郎・源義家の死後、源家の家督は義国の同母兄である義忠が相続しました。 同族間で争いが絶えない源氏の中において義国は、同母兄の義忠とは仲が良かったと伝わっています。 その義忠が暗殺された後には、嫡子経国を引き取り後見する事になったと伝わっています。 また他にも、次男・義康を本家筋である源義朝と相婿とし、長男・義重の娘を義朝の息子・義平の正室にするなど同族融和も図っています。 この二つの婚姻の前者は後の足利氏の隆盛の発端となり、逆に後者の婚姻が新田氏衰退の遠因ともなった事は歴史の妙につきます。 |
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□ 源義国の晩年 晩年、義国が居を構えたのは新田の岩松です。(下図)群馬県太田市岩松町にある青連寺近辺に屋敷が有りました。この青連寺南方には岩松八幡宮があり、義国により石清水八幡宮勧請と伝わります。 義国はこの地で逝去し、青蓮寺(または義国神社)が墓所と伝わります。 孫の義清が供養の為に奉納した大般若の奥書にも”上野国新田住式部太夫加賀介従5位下義国”という記載が見られます。 |
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● 義国が晩年を過ごした岩松は、後に足利義兼の孫にあたる岩松時兼を家祖として岩松氏が治めます。 岩松時兼の父は、足利義兼の子・足利義純です。 後に岩松氏は、南北朝時代における足利氏と新田氏との対立に際しても、足利氏の陣営で戦います。 その後、新田宗家が滅亡した後は、岩松氏が新田宗家の家督を継承します。 大きな地図で見る |
■ 足利の鑁阿寺 御霊屋(通称赤御堂)
義国と義康の霊廟である"御霊屋"(鑁阿寺:赤御堂とも呼ばれます)
本殿裏に義国と義康の供養の為の五輪塔が安置されています。
● 高階 惟頼
足利家の執事(高師直の先祖)
高階氏は、南北朝時代までの源姓足利氏にとって常に影のように従う一族です。
もともと高階惟章、惟頼の親子は、源氏と深いつながりを持っていました。高階惟章は源義家の乳母弟であり、後に側近ともなります。また息子の惟頼は、一説によれば義家の庶子を養子として貰い受け家督を相続させたと言われます。つまり、義国の異母兄弟です。(異説あり)
高階氏の流れからやがて高氏、南氏などが生まれ、南北朝時代に尊氏の側近として活躍する事になります。
しかし義国が義家から坂東の所領(上野国八幡荘や足利)を譲り受けた当時の高階氏の動向は、随伴した事以外あまりわかっていません。足利荘の立荘の翌年に発生する梁田御厨の知行権紛争の当事者は高階氏であったと言われており、早い時期から高階氏が足利(現在の八幡町近辺)に土着し、勢力を扶植させていたことが伺えます。
(下図は鎌倉末期の足利地域における高階氏の子孫・高氏の所領分布です。)
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図中、所領が集中している南部地域がまさに梁田御厨の地です。足利地域(足利郡および梁田郡)の開発は、高階氏の配下に組み込まれた田堵・農民により行われていたと思われます。その結果、全く同じ位置付けとなる籐姓足利氏と権益が競合し、紛争の火種となりました。
※ 高階惟章は源義家の庶子。義国の異母兄弟。共に坂東に下向し郎党となる。足利市内にある光得寺の「五輪塔」にその名の見える高師直の先祖です。
● 源 義光 【生没年:西暦1045年〜1127年】
義国の叔父(義国の父・義家の弟)
源義家の弟であり、源義国に先だって坂東に進出し、生涯に渡る競合者となります。
後三年の役の後、常陸の国に土着し勢力を扶植し、佐竹氏を興し息子の昌義に継がせています。
源義国がはじめて坂東に下向する切っ掛けとなったのも、その佐竹氏の討伐が目的です。やがて互いに北関東地域を勢力を広げるに従い、競合する事になります。
義光は、後三年の役において”官を辞して義家の救援に赴いた”とされるように情に厚い一面も残されていますが、他方、源義家の死後、源家の家督を継承した源義忠(源義国の兄)の暗殺事件の黒幕とも言われています。河源記によれば義光は、晩年、義忠の遺児、経国によって三井寺で討たれたと言われていますが、病死と云う説もあります。
● 源 為義 【生没年:西暦1096年〜1156年】
義家の次男(長男は早逝)義親の息子
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源為義は、源義国の従弟であり、血縁的には近しい関係にありながら、源義光同様、生涯に渡る競合者となります。
為義が初めて歴史に名を残すのは、源義国の兄、源義忠の暗殺事件(西暦1109年)です。「源義忠暗殺事件」は、当初、叔父(父義家の弟)の源義綱が首謀者とされ、為義はその義綱一族を討伐する功を挙げ、源氏の家督を相続したとされます。 ※ 源為義は、一般的には「源義親の次男」とされますが、源義家の四男という考察もあります。その場合、義忠の生年である西暦1083年から、諸説ある義国の生年のうち最後に当たる西暦1091年までの間に生まれたと考えられ、追討当時の年齢は18歳〜26歳となります。(義親の子である場合、追討当時の年齢は10歳前後です。) 「義家の四男説」は朝命によリ討たれた義親の息子というよりも、源氏の家督継承者となる事や、仇討ちを行った事に説得力が有りますが、ここでは義親の子として考えています。 |
義国と為義が直接まみえた記録は、西暦1114年に検非違使から「為義の郎党である藤姓足利家綱が上野国国衙領の雑物を押し取った」訴追された事件です。この時、為義は”家綱”を義国郎党であると主張し争論に及んでいます。
その後、保元の乱の前年、かねてより関係が悪化していた息子・義朝との間で大蔵合戦が行われます。この戦いには、義国の長男・新田義重が義平側(義朝の息子)として参戦しています。そして、翌年に発生した保元の乱においても義国の次男・足利義康が源義朝側として参戦し、源為義はこの戦いに敗れて死んでいます。
● 河内 経国 【生没年:西暦1101年〜156年】
・源経国 ・幼名は源太
父の源義忠は、源義国の兄であり、源氏の家督を相続しています。
経国は嫡男でしたが幼少期に父・義忠を大叔父にあたる義光に暗殺されてしまい、家督は従弟である為義に奪われてしまいます。その後、母子共に母親の実家で養われる事になります。※1
後に経国は、父の仇である源義光を討ち、源義国の元に隠れたとされています。※2
※1 母方の祖父は平正盛。後に権勢を振るう平清盛の祖父です。経国は平清盛の従弟です。
※2 経国に関する記載の多くは『河源記』の記載によります。その『河源記』は全編を記した物が無く、また参照資料が不明など歴史資料としての精度に疑問が投げかけられています。
『河源記』の記載によれば、経国は平正盛の屋敷では無く藤原経実に庇護されて育ったと有ります。また、正妻として藤原経実の娘を娶ったとされていますが真偽は不明です。
因みに藤原経実は、後に娘を後白河天皇の中宮となし、二条天皇を生ませ、天皇の祖父となります。
● 平 正盛 【生没年:不詳 〜西暦1121年】
・平忠盛の父 ・清盛の祖父 ・源義忠の妻の父であり、経国の祖父にあたります
源義国の兄、源義親の追討に功を上げています。
源義忠の正妻の父であり、義忠暗殺後、残された妻子を引き取り、養ったと言われています。
平正盛は武門に秀でた点も無く、義親討伐の他には目立った武功も有りません。(義親討伐については、当時から事の真偽が疑われていた事が中右記などに記載されています。)
後の平氏発展の足掛かりを築いた人物です。
● 平 忠盛 【生没年:西暦1096年〜1153年】
・平清盛の父 ・経国の従弟
・源義忠正室の弟
源義国の兄で源氏宗家を相続する源義忠が烏帽子親となり、義忠から偏諱を受けます。その忠盛は皮肉にも、烏帽子親である源義忠の異母兄・”源義親の乱”討伐で武名を上げる事になります。
(源義親は、源頼朝の曽祖父にあたります。)
源義忠が暗殺され源氏が衰退するのと入れ替わりに平氏が頭角を現します。忠盛も白河・鳥羽の両院に近侍し、藤原宗子(池禅尼)※1を正室としています。
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西暦1135年の西海(瀬戸内海)の海賊討伐で追討使に任じられ、戦後、在地領主を家人として自らの勢力下に組み込み、瀬戸内海地方に勢力基盤を築きました。 また忠盛の妻、宗子が崇徳上皇の乳母であった事から、崇徳上皇に深い信頼受けており、後年、保元の乱において敗勢にあった崇徳上皇側が忠盛の子・清盛が味方に付く事を願ったと言われます。 西暦1153年、清廉な人柄を惜しまれつつ逝去。 |
※1 池禅尼は、平治の乱の後、断食をしてまで源頼朝の命を救った源氏の救世主です。
● 平 清盛 【生没年:西暦1118年〜1181年】
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平忠盛の長男。保元の乱、平治の乱を経て平氏政権を樹立する。日本史上初の武家政権。 平治の乱により源氏宗家を断絶寸前にまで追い込んだ事から、後世において源氏と平氏は「不倶戴天の敵」として憎みあっていていたかのような印象を持たれていますが、平治の乱から平家政権の間、平氏が源氏を目の敵にしたような事例は見られません。むしろ源(新田)義重など平氏から十分な便宜を図られていました。 治承・寿永の乱の後、苛烈を極めた源氏による平家の落武者狩りが、両者の間に深い憎悪があったと印象づけたのかも知れません。 |