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三宝院



外観


鐘楼

足利氏の歴史

 

三宝院 藤姓足利氏 行国公の墓所

 "足利氏の歴史"というWEBページは、前提として"西暦1150年以前に源義国は足利に居た"という考えで作成しています。 つきましては、その年代の足利の出来事に関して国立国会図書館収蔵の"足利郷土大年表"を参考にしました。先示した年表(足利氏の足跡)と矛盾点もありますがご紹介します。
 尚、転載内容に関して、本編内の他の記載と矛盾については原文を尊重し、そのまま転記していますが、一部で錯誤を招く恐れのある点は、補足をつけさせていただきました。
(転記ミス、一部の省略等はご容赦下さい。)

※ この”足利郷土大年表”は、数少ない源義国公と藤姓足利氏の関係を記す資料です。特に源義国公と協力関係に有った藤姓足利氏の名前として行国公の名前が記されている点が非常に興味深い所です。

 足利郷土大年表(昭和12出版/須永弘 編著 国立国会図書館収蔵)

皇紀1714(西暦1054年)    足利二郎太夫成行両崖山に築く
皇紀1716(西暦1056年)    源義家 奥州追討の    戦勝祈願の為八幡宮を勧請
皇紀1719(西暦1059年)    渡良瀬川出水
皇紀1722(西暦1062年)    頼義・義家凱旋の途次足利に滞留 
皇紀1743(西暦1083年)    義家奥州追討の為下向。先例により足利俊綱の館に入る。
            俊綱岡崎山迄見送る。(岡崎山:現在の北郷小学校東の小山)
            ※ 足利俊綱は、成行または成綱(成行の子)の誤記載と思われる。
皇紀1744(西暦1084年)    義国足利氏を名乗る。
皇紀1755(西暦1095年)    足利基綱卒(早逝したとされる成行の子・成綱の誤記載?)
            ※ 籐姓足利氏の系図にはこの時期、基綱に該当する名前が有りません。
皇紀1756(西暦1096年)    足利(淵名)兼行卒
皇紀1758(西暦1098年)    足利栗崎五郎太夫行国 蓮台寺山に城を築く
皇紀1768(西暦1108年)    義国上洛、行国之に従う。
            ※ 暗に義国が足利に在住している事を示しているのか?
            ※ 行国は、成綱の叔父の子にあたる。(後に家綱成人まで当主を代行)
            ※ この年、浅間山が噴火している。
皇紀1770(西暦1110年)    大原神社創建
       西暦1111年『長秋記』8月21日条に成綱の記載あり。相撲節で「奈波四郎」と呼ばれる。
     ※ この記述はWikipediaを参考に追記しましたが、成綱は家綱の誤記述と思われます。
       西暦1114年   家綱が国衙領の雑物を押し取ったと上野国司が検非違使庁に告発される。
皇紀1775(西暦1115年)    足利義康生る   ※ 義重の誤記では無いか?
皇紀1778(西暦1118年)    足利二郎太夫成行卒
皇紀1785(西暦1125年)    足利義康11歳で元服 ※ 義重の誤記では無いか?
皇紀1786(西暦1126年)    足利五郎太夫栗崎行国卒(三宝院に墓所)
皇紀1802(西暦1142年)    梁田御厨より伊勢内宮に貢進 ※ 藤姓足利氏と梁田御厨の給主職争い
皇紀1809(西暦1149年)    義国京都にて公卿と争い
皇紀1810(西暦1150年)    義国下向
皇紀1815(西暦1155年)    義国卒
皇紀1816(西暦1156年)    足利義康…保元の乱
皇紀1840(西暦1180年)    足利又太郎忠綱、宇治川の合戦に先陣
皇紀1841(西暦1181年)    足利義兼北条氏の女を娶る。
皇紀1844(西暦1184年)    義兼、志水義高の与党を甲斐に討つ。義兼、上総の介に任ぜられる。
皇紀1847(西暦1187年)    北条政子、義兼の妻、時子の急病を見舞う。
皇紀1850(西暦1190年)    大河兼任叛し、義兼追捕使となる。
皇紀1851(西暦1191年)    足利氏居館を八幡山より今の鑁阿寺の所に移す。
皇紀1853(西暦1193年)    足利義兼居館内に岩井郷の寺を移す
皇紀1854(西暦1194年)    足利又太郎忠綱、頼朝の詮議厳しきに耐えず彦間の奥に入りて自刃す。
皇紀1854(西暦1194年)    義兼、鶴岡八幡神前に祈祷一切経と両界曼荼羅を納む。
皇紀1855(西暦1195年)    義兼、頼朝に従い上洛。東大寺にて出家す。
皇紀1856(西暦1196年)    義兼、邸内に大日堂を建立
皇紀1859(西暦1193年)    足利義兼入寂
皇紀1894(西暦1234年)    鑁阿寺、大御堂建立

足利行国(三宝院の掲示より)

足利五郎太藤原行国の墓
藤姓足利氏は、平将門討伐の功績のあった佐野唐沢城主藤原秀郷の子孫です。子孫の伊勢崎淵名城主藤原成行が西暦1054年足利に入部、兩崖山に城を築き足利藤原氏が誕生しました。
 成行は足利太夫と呼ばれました。太夫は武士最高の五位の別称ですから、足利郡司だったと考えられれます。嫡男成綱が早逝したので孫の家綱が養子となり足利太夫を継ぎました。
 当時の継嗣相続は五位の位の家では孫では相続が出来ぬ制度であったので祖父の養子となり家督を継いだと思われます。
 行国は「尊卑分脈」によれば成行の弟行房の子となっていますが、藤原系図によれば成行の五男で栗崎五郎太郎または、足利五郎太郎と呼ばれました。
 同書には「栗崎蓮台寺城主大治元年7月27日卒、正善寺殿仁応行国」とも書かれています。
 行国は、父成綱が早逝し幼くして家督を継いだ家綱が成長するまで成行の後の足利郡司を務めたと考えられています。足利五郎たと足利と云う地名を冠して呼ばれる時は、その地の棟梁を表していますから、一時期足利藤原の棟梁で兩崖山城主となり、家綱の成人によって譲って蓮台寺に隠居したと考えられています。昔の暖かい人間関係が浮かんでくるような行国の墓です。
 足利藤原氏は源平合戦の時、平家に組したため頼朝により滅ぼされました。
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