1. はじめに : 足利の街と歴史
鑁阿寺の御霊屋、通称「赤御堂」/義国・義康の墓が有ります。
■ 源氏と足利の出会いから「歴史」がはじまる
下野国足利(現在の栃木県足利市)は、12世紀初頭、源氏の血筋源義国が下着し源姓足利氏への第一歩を記した場所です。
現在は、関東平野の北に位置し、北関東自動車道が東西に貫く人口およそ15万人の小都市である足利は、当時から京都から奥州へと続く東山道と、相模の鎌倉へと続く鎌倉街道とが交わる軍事並びに産業の要衝として重視されていました。
もとは藤姓の足利氏により開拓された足利でしたが、義国の孫にあたる足利(源)義兼が鎌倉時代の初めに単独支配するようになり、源姓足利氏の宗廟としての足利の歴史がはじまります。
以後、足利氏一族は、15世紀に至るまで直接・間接に足利を統治し、現在の足利の形の原型を築き上げてゆきました。
源姓足利氏の足跡(全体年表)
※ 東山道(現在の北関東道→東北道に相当する幹線)
※ 鎌倉街道(現在の関越道+東北道に相当する経路)
■ 源姓足利氏が足利を治めた4つの時代
源姓足利氏が足利を治めた12世紀から15世紀という年代は、日本史の上では「平安」から「室町」に至る4つの時代に属しています。このサイトでは各時代の源姓足利氏の活動と役割を中心として、どのようにして足利という街を作り上げたかを見てゆきたいと考えています。
【概要】
@ 平安時代末期
源義国〜足利義兼までの足利氏の原点となる時代。
武士の台頭から鎌倉幕府の成立までの動乱の時代
A 鎌倉時代
足利義兼〜足利貞氏までの足利氏発展の基礎となる時代。
足利に残された文化遺産の多くが作られた、足利という街の原点となる時代。
B 南北朝時代
足利尊氏、直義、高師直などが活躍する戦乱の時代。そして上杉氏の登場。
源姓足利氏が一躍時代の表舞台に登場した時代。
C 室町時代(鎌倉府の時代)
上杉氏と鎌倉府の軋轢と長尾氏の統治の時代
100年もの間、絶え間無い戦いに足利という街が巻き込まれた動乱の時代。
■ 源姓足利氏一門の足跡
足利氏発祥の地である「足利」には、足利氏のほか、足利氏一族に連なる氏族により様々な史跡が残されており、歴史の移り変わりと儚さを感じる事が出来ます。なかでも鎌倉時代から室町初期にかけて創建された寺院の多くが、その後の歴史の中でも大切に保護され現在に残ります。
足利史跡GoogleMapへ
@ 鎌倉時代
足利氏の宅蹟である鑁阿寺をはじめとした多くの寺院が建立されています。
A 南北朝時代〜室町時代初期
室町将軍となった尊氏、義満により足利は保護され、新たな寺院も建立されました。
また、足利氏の家臣であった上杉氏により足利学校も創建されます。
B 室町時代中期以降
戦国時代の色彩が濃くなってきた時代、上杉氏の家宰にあった長尾氏により統治されます。
この時代、戦災を避けるために、足利学校や善徳寺などが現在の場所に移転されます。
写真は鑁阿寺の多宝塔です。この"京都の秋"を思わせる風景も、足利氏の功績であり足跡です。市内には今も数多くの”足利氏ゆかりの寺”が往時を忍ばせる姿で残されています。
足利氏ゆかりの寺
■ 戦乱と平和への願いを込めて
足利尊氏の室町幕府創設により幕を開けた室町時代は、戦乱の続く時代でした。足利氏発祥の地である「足利」は、関東における戦乱の中心となります。君臣共に秩序も道徳心も失い、民心も荒廃した時代の中、それを憂いた上杉憲実が儒学の教えを広めようと足利学校を創建します。
しかしその願いも虚しく足利氏、上杉氏、長尾氏という元は主従の関係にあった氏族一族間で骨肉の争いが繰り広げられてゆきます。
室町時代繁栄した足利氏族
やがて関東を地獄の戦場とした足利氏、上杉氏、長尾氏ら一族郎党は弱体化し消滅します。そして戦国の覇者として徳川家康が関東に入府し、平和が訪れる事となりました。
ここで忘れてはいけないことは、関東に平和をもたらした徳川家康を支えた譜代の家臣たちの多くは、尾張、三河、遠江、駿河の民であり、それは鎌倉時代に足利から旅立った足利氏の一族とその郎党である事。徳川の行政官僚が礎としたのは、鎌倉時代の足利家の行政機構であった事。そして、関東入府以降、新たな領地の行政を担った家臣の多くが足利学校の出身者であった事です。
つまり室町時代から戦国時代の戦乱の責任は足利氏に在る一方、江戸時代の平和は、同じ足利で生まれ育った名もなき人々の子孫が創ったという事実です。
現在の足利に暮らす我々もまた、その子孫である事を誇りに感じる必要があるようです。
下野国一社八幡宮